翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

『ガリヴァー旅行記』

 今日は、2ヶ月に一度の古典児童書を読む会でした。課題本はジョナサン・スウィフト作の『ガリヴァー旅行記』。わたしが読んだのは、福音館文庫の坂井晴彦さん訳のもの。読みやすい訳文でした。だ・である調。岩波の中野好夫訳は、です・ます調みたいです。

f:id:haradamasaru:20201109222401j:plain

(会場は、川越の絵本カフェ、イングリッシュブルーベルさん。Ehon Cafe - English Bluebell -

 子どものころに全集に入っていたものを読んで以来でした。みなさん、そんな感じで、なんとなく知ってるし、今さら、という感じで、ちゃんと読んでなかったという人がほかにもいらっしゃいました。

  河出書房の全集で小学校の頃に読んでいるのですが、小人の国と巨人の国で、あとは省略されているバージョンが多いのに、この全集はちゃんとガリヴァーの四回の航海を網羅していて、馬の国まで含んでいたことをおぼえています。もちろん、かなりの抄訳で、挿絵付き。馬の挿絵を見た記憶がはっきりとあります。小人と巨人の国は、ヴィジュアルが想像しただけでおもしろいのですが、この、後半部分は、なんだかよくわかってなかったと思います。

 今から三百年も前に書かれているのに、風刺文学としてはほんとうに鋭くて、当時のイギリスの悪いところが、今の日本と重なって、なんだかなあ、という印象。まだ児童文学というものが確立していなかった時代なので、本来、子どもの本ではありません。だから、絵的にわかりやすいところのつまみ食いでも、最初はいいと思いますが、でもやはり、いつか、今日のわたしのように、ちゃんと省かずに全部読んでもらいたいなあ、と思いました。また、福音館文庫が全訳版なのも、そういう趣旨のようです。

 

 ところで、メンバーのお一人が、「ガリヴァーという名前は作品の中に出てこないよね?」と鋭いひとことを。そうなんです、言われてみると、ガリヴァーが書いた旅行記という体裁で、ガリヴァーという名前は出てこない。原書を見てみると、出版社から読者へ、という前書きがあって、その中で、これはレミュエル・ガリヴァーという人の体験談だと書いてあります。そのあとに、ガリヴァーから甥にあてたという設定の手紙があります。政府批判をたくさん含むので、スフィフトは匿名で発表し、こういう形にしたのでした。

 

 

 以下、時節柄、とても気になったフレーズ。ガリヴァーが時のイギリス政府の実態を、馬の国(フウイヌムの国)の主人(外見は馬)に解説する箇所です。

「「首相の官邸は、将来同じような地位につくことになる者を養成する学校でもあります。つまり、召使いも、下男も、門番も、主人のまねをしているうちに、いつのまにか、いわばそれそれの持ち場の総理大臣となり、この地位につきものの、三つの大きな要素である、傲慢、嘘、賄賂にかけては、優等生となります。そうなると、彼らを取り巻く一種の小宮廷ができあがり、高官たちが、つぎつぎにご機嫌うかがいにくるようになります。ときには、抜け目のなさと、あつかましさを発揮して、しだいに出世し、やがては、実際に、主人の後継者になってしまうことさえあります。」」(『ガリヴァー旅行記(下)』J・スウィフト作、坂井晴彦訳、福音館文庫、p.226)

 

 ここ読んだとき、うなっちゃいました。

 

 また、その、馬、というか、フウイヌムの主人を、ガリヴァーはこんなふうに評しています。

「主人は、わたしの話を聞いているうちに、とまどったような表情をありありと顔に浮かべた。というのは、この国では、疑うとか信じられないということは、ほとんどありえないので、住民たちは、そういう場合には、どうふるまったらいいか、わからなくなるからだ。今でもよくおぼえているが、よく、世界のほかの国々に住む人間の性質について、主人と話し合っているさいちゅうに、話題が「嘘」とか「でたらめな話」とかいったことになると、ほかのことではたいそう鋭い意見を述べる主人が、わたしのいっていることが何の意味かわからなくて、ひどく困っているようだった。主人の考えはこうだったからだ。言葉の役割というのは、わたしたちが、おたがいにわかり合えるようになることであり、また、事実についての知識を得る助けとなることだ。ところが、もしだれかが、ありもしないことをいったとしたら、こういう目的は二つとも台無しになってしまう。」(同上、p.191)

 

 いいなあ、馬の国。

 もう一度書きますが、「言葉の役割というのは、わたしたちが、おたがいにわかり合えるようになることであり、また、事実についての知識を得る助けとなることだ。」

 

(M.H.)