翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

《寄稿》伊達淳さん(後半)

 昨日の続き。

 伊達さんの話を聞いていると、とても翻訳に対して謙虚で、調べ物やレジュメの書き方など、すごく丁寧なお仕事をされていることを感じました。ああ、もう少し自分も手をかけてやらないといけない、と反省しました。

 奥様の故郷で、今、お住まいの松江の話をうかがいました。寒いそうです。小さな町で本屋さんが少ないそうです。でも、その町でご自分の本を書店や喫茶店などにおいてもらっているとのこと。『マミー』の原作者はアイルランド人、そして、島根ゆかりのアイルランド人といえば小泉八雲、ということで、八雲について地元紙に文章を書いたり、町おこしのパンフレットの原稿を書いたりと、町と有機的なつながりをもった活動もされています。なかなかできることではないと思います。

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(伊達さんが文章を書かれた松江市のPR絵本『雨粒御伝(あまつぶおんでん)絵本 雨の降る都(まち)』の一部。松江はほんとうに雨や曇りの日が多いのだそうです。)

【 縁雫(えにしずく) 松江の雨は縁を運ぶ | 水の都松江 松江観光協会 公式サイト 】

 伊達さん、いろいろご家族の事情で忙しかったそうですが、これから、また、翻訳に一層力を入れて取り組まれるそうです。ご活躍が楽しみです。今度は、お酒を飲みながら話がしたいね、と言いながら別れました。

 では、コラム再録、後半をどうぞ。

 

コラム再録「原田勝の部屋」 

   《寄稿》伊達淳さん(後半)

(2011年7月4日掲載記事 再録)

 

翻訳家・(株)恵光社社長 伊達 淳さん 

伊達 淳(だて・じゅん)さん プロフィール

 1971年和歌山県生まれ、関西学院大学卒業後、保険会社に四年間勤務の後、翻訳家をめざして東京外国語大学に編入学。2003年、最初の訳書『マミー』(ブレンダン・オキャロル作、白水社刊)を出版し、以降、翻訳家として活躍。2010年、(株)恵光社(えこうしゃ)を設立し、その第一弾として、2011年5月に自ら翻訳した『チズラーズ』(ブレンダン・オキャロル作)を出版。その後、同じ作者によるアグネス・ブラウン三部作の三巻目『グラニー』を出版。

 兵庫県芦屋市から島根県松江市に転居。翻訳活動を継続。『ペレ自伝』(ペレ作、白水社)、『サル:その歴史・文化・生態』(デズモンド・モリス作、白水社)、『野生のオーケストラが聴こえる』(バーニー・クラウス作、みすず書房)、『真夏のマウンド』(マイク・ルピカ作、あかね書房)など、訳書多数。


 伊達さんのHP http://wildhearts71.cocolog-nifty.com/jd/
 恵光社のHP http://www.ekosha.com/

 

 前回、最初の訳書を出版されるまでのお話、いかがでしたか? 伊達さんの情熱は本当に素晴らしいですね。さて今回、後半は、「恵光社設立の経緯と想い」を中心にお送りします。
 ちょっと考えてみてください。みなさんは、翻訳出版したい本があるのに、既存の出版社が出してくれない、そんな時、自分で出版社を作ろうと思いますか? 伊達さんは思っただけでなく、実行してしまいました。この話を知った時、わたしは心底驚き、また、自分が叱咤激励されているように思いました。読者の皆さんにも、ぜひ、伊達さんの想いを知っていただきたいと思います。

             (原田 勝)

 

『マミー』の続編

 2003年に白水社さんから『マミー』を出していただいた時の感動は、八年経った今も忘れることができません。持ち込み企画が採用されたと知った時の感動、邦訳オリジナル・デザインのカバーがかけられて実際に本になった時の感動、書店に並べていただいた時の感動、色んな方からよかったね、読んだよ、面白かったよと声をかけていただいた時の感動、そして何より、大好きな作品を自分で翻訳する喜び――。次の候補をさっそく探しにかかりました。

 実は”The Mammy”に続編があるということは、『マミー』が出版される2003年以前に知っていました。サンタモニカの書店で”The Mammy”を見つけた翌年、2000年の冬だったと思います。当時ぼくは毎年12月になるとホノルル・マラソンに参加していたのですが、ワイキキの書店で”The Mammy”の続編となる二作、”The Chisellers”と”The Granny”が出ていることを知ったのです。そんなに人気のある作品ならば、日本でもどこかの出版社が版権を取ってしまうかもしれず、そうなるとぼくの出番はなくなるので、こうしちゃいられないと焦りにも似た気持ちが生じ、マラソンなんかもういいから一刻も早く日本に帰って翻訳したいと思いました。その年のマラソンのタイムが芳しくなかったのはもちろんそのせいではありませんが、ホノルルに滞在中、本来ならリラックスするためにビーチを散歩したり、ショッピングを楽しんだりするのですが、この年はホテルの部屋やビーチでずっと”The Chisellers”と”The Granny”を読んでいました。そして帰国後、『マミー』同様、『チズラーズ』と『グラニー』の翻訳を完成させ、レジュメも作りました。

 “The Mammy”三部作が日本で話題にならなかったことは良かったことなのか悪かったことなのか、2003年に無事、ぼくの翻訳で出していただけることになり、実はその後、白水社さんには『チズラーズ』と『グラニー』も見ていただいていました。しかし『チズラーズ』以降は『マミー』の売れ行きを見てからということになり、結局、続編を出していただくことはできませんでした。

 

その後の翻訳活動

 それでも白水社さんからは、以降、様々なお仕事をいただき、『マミー』の次に持ち込んでいた作品が女性作家のものだったということで、同じく女性作家による『監視国家』を翻訳させていただいたり、スポーツが好きなのであればということで『サッカーが世界を解明する』や『ペレ自伝』、『ファイターズ・ハート』といった作品をご紹介いただいたり、その合間には『アラスカを追いかけて』、『善良な町長の物語』といったフィクションを翻訳する機会もいただきました。他にもジャンルを問わずリーディングをさせていただくなど、活動の幅は少しずつではありますが確実に広がっていきました。翻訳にはつながらなかったものも含め、翻訳することを意識しながら様々なジャンルの本を読むことで、翻訳への対応力が実践的に鍛えられたと思います。好きな本を好きなように翻訳しているだけでは、この先やっていくことができないと改めて思い知った期間だったかもしれません。

 一方で、引き続き行なっていた持ち込み企画の営業はあいかわらず断られたり、返事をもらえなかったり、翻訳も済ませたところで他で翻訳が決まっていることが判明したり、企画だけ持っていかれたり、なかなか思うように進みませんでした。だけどたとえば『真夏のマウンド』(あかね書房、2010年)など、持ち込みがきっかけで仕事をいただくこともあり、活動の基本を「自分で本を探し、翻訳して持ち込む」ことに置くということにはこだわっていました。

 そんな毎日を過ごしながらも、『チズラーズ』や『グラニー』をどうにかしたいという思いは日に日に強くなる一方で、『マミー』も含めた三部作は絶対に面白いという確信とともに、それを出版につなげられないもどかしさや心苦しさも感じるようになっていました。一作目の『マミー』を白水社さんから出していただいて、二作目以降は出してもらえないからと言って他の出版社に持ち込む気にはなれず、そうなると自分で出すことになるんだろうなあということは、なんとなく思っていました。出版社を設立するということです。ありがたいことに目の前には常に何かしらの仕事があったため、すぐに出版社設立ということにはなりませんでしたが、会社を辞めた時と同じように、決断する時期を決めかねていただけで、出版社を設立するのは自然な流れでした。それがたまたま2010年の12月だったというだけのことです。

 

訳書にとことん関わりたい

 『チズラーズ』や『グラニー』など自分が翻訳したい本を自分で出すという目的以外に、自分が翻訳した本にとことん関わっていきたいという願望もありました。翻訳後は翻訳前以上に、その作品のことが好きになっているものです。ですから、翻訳して終わりではなく、たとえば書店さんにご挨拶するとか、色んなメディアに取り上げてもらうための活動をするとか、その本をたくさんの人に知ってもらうための活動に積極的に関わっていきたいと思うようになっていたのです。自分が翻訳した作品を置いていただいている書店さんにポップを持ってご挨拶に伺ったことは何度かあるのですが、それ以上のことは出過ぎた真似をしようとしているように思え、なかなか身動きが取れなかったりします。自分が出版社であれば、そういう懸念も不要になると思ったのです。

 夢や目標は刻々と形を変えていきます。念願だった『マミー』を出版してもらうと、今度は続編を出したくなりました。翻訳をするだけでなく、その本の出版にもう少し関わっていきたくなりました。それが欲なのか成長なのかは分かりませんが、そういった変化に対応し、叶えていくための努力を続けることは、夢を持って目標を掲げてしまった者の義務だと思います。

 恵光社を設立して、版権を取り扱うエージェント会社や、実際に本を作ってくださる印刷会社、作った本と全国の書店さんの橋渡しをしてくださる取次会社、書店さん、読者の皆さまなど、これまでの翻訳家としての立場とはまた違った形で、様々な方にお世話になっています。それはそのまま新しい刺激となっています。新しくお付き合いをさせていただけるようになった方々に新しい刺激をいただきながら、だけど活動の源となっているのは翻訳に出会った頃と変わらない気持ちです。野球以上に夢中になれるものと出会えるなんて、それまでは思ってもいませんでした。翻訳との出会い、”The Mammy”との出会い、白水社さんとの出会い、『マミー』以降の翻訳を通じて知り合った方々との出会い、恵光社を設立したことで知り合った方々との出会い、様々な出会いがぼくを成長させてくれています。

 実際に、内容に合ったカバーデザインを考えたり、帯の文句を考えたりするのは楽しい作業でしたが、楽しんでばかりもいられず、これからはせっかく作った何千冊もの本をどうやって売っていくかということを考えていく段階です。そういう現実的な問題への対応が今後の課題となってくると思います。と言っている余裕もないぐらいの急務です。

 

翻訳家、そして出版人として

 いずれにせよ、恵光社として幸福な第一歩を踏み出し、このまま第二弾、第三弾と順調に出していける出版社にしたいという目標はもちろんありますが、ずっと強く意識しているのは、やはり「いい翻訳をしたい」ということです。「いい翻訳ができるようになりたい」ということとは少し違うように思います。いい翻訳ができるようになったとしても、いい翻訳をしたいという気持ちはなくならないと思います。これは目標というよりは、原作者と読者を結ぶ翻訳家の姿勢としてということです。そしてそれは意識するものというよりは、前提として身についていてほしいことです。そのためには数多くの本番の経験が必要になってきます。海外の作品を日本の読者に紹介できるというのは、翻訳家という職業の最大の魅力の一つです。それをこれからも続けていくための環境を整えたくて、ぼくの場合は出版社を設立しました。それである程度の自由を確保できた反面、翻訳や出版に関する全ての責任を引き受けることにもなりました。そこには、外に向かおうとする解放感が満ちています。一歩を踏み出した後には次の一歩を踏み出せるように、そして二歩、三歩と踏み出し続けられるように、自分の足で歩いている実感はとても清々しいものです。

 最初の一歩を踏み出したばかりの恵光社ですが、これからも初心を忘れず、いい作品を見つけていい翻訳をしていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

(了)

 

ハリス・バーディック年代記:14のものすごいものがたり

 (オールズバーグの本です。14の短編のうち、伊達さんが2編訳されています。)

 

 

 

 

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