翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

作品の中の翻訳

 24日(日)の翻訳大賞授賞式に備えて、受賞作のひとつ、『ムシェ 小さな英雄の物語』を読んでいます。ふだんは、どうしても児童書やヤングアダルトばかり読んでいるので、ああ、文学というのは、こんなふうに読者に負荷をかけてもいいんだった、と今さらながら思いました。

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  この本は、原作者のキルメン・ウリベが、実在する人物に取材をし、その取材で得た話とフィクションを織り交ぜて書くという手法をとっています。で、まあ、一般向けの小説では当たり前のことなのですが、訳注がほとんどありません。スペイン内戦も、フランコ政権も、バスクも、第1次世界大戦も、第2次世界大戦も、説明がない。とくに序盤は時代が前後し、焦点を当てられる人物も変わっていきます。

 読者には負荷がかかります。ふだん、若い読者の負荷をいかに減らすかに腐心して翻訳をしている身にとっては、結構つらい。お断わりしておきますが、金子奈美さんの翻訳はとてもなめらかです。声に出して読むとよくわかります。一定のリズムで、言葉の選択にも無理がありません。内容が読者に(というか、わたしに)負荷をかけてくるのです。頭が児童書を読んでいる時の何倍も汗をかいているのがわかります。

 それでも、昨年の受賞作『エウロペアナ』は、冒頭の10ページから先に進めなかったことを思うと、『ムシェ』はわたしにも楽しめます。しだいに読むスピードが上がってきました。

 

 

 昨日読んだところに印象的な箇所がありました。主人公のロベール・ムシェ(カバーの写真は彼の一家の写真だそうです)はレジスタンス活動に従事したために、妻子から離れて一人で身を潜めているのですが、その間、なんと翻訳の仕事に携わっています。

 

「ヘルマン、あのろくでもない本を訳しながら、文学作品を良いものにするのは何だろうって考えていたんだ」

「美しさじゃないか」とヘルマン。

「美しさは何の関係もないよ。時代性や、形式的な斬新さでもない。そういうのは理論的なことであって、批評家の飯の種だ。僕にとっていちばん重要なのは、テクストには現れない何かなんだ、文章の背後にあるもの……」

「魅力?」

「僕ならその言葉は使わない。衝動(傍点あり)と言うほうがいい。ある本のなかに作家その人の存在が感じられるとき、その作家がほかの誰よりも見事にその物語を語ってくれるはずだとわかるとき、その声に聞き惚れずにはいられないとき……」

 ウェイターがテーブルに近づき、ロベールの話を遮る。

「デザートはいかがですか?」

  (『ムシェ 小さな英雄の物語』(p.127-8より))

 ロベールが翻訳に従事しているというのが、翻訳大賞となった作品として面白い偶然だと思います。いや、もしかしたら、選考委員の心を動かしたのはこの設定なのかもしれません。ロベールとヘルマンは若いころからの親友ですが、仲違いをし、再度、親交をもつようになります。ロベールは潜伏中で、連絡係でもあるヘルマンとカフェで会っている場面です。最後のウェイターの言葉は、ナチスが来る、危ないからすぐに店を出ろ、という合図なのです。

 

 また、こんな記述もあります。

 カフェの小さなテーブルで、彼は翻訳について考える。そのいつ終わるとも知れない日々、ロベールの傍らにいてくれるのは作家たちだけだった。彼はその作家たちの世界に入り込み、訳すべき小説の声に耳を澄ませた。それらの声が、前に進み続けるために、生ける人々の声よりもはるかに彼の助けとなってくれた。( 中略 )外国の作家たちをオランダ語に訳しながら、ロベールは多くのことを学ぶ。異国の言葉で語られていることを自分の言語で語り直すのは、人類未踏の地に入っていくのに似て、彼には楽しい。翻訳は、彼の眼の前に見知らぬ風景への窓を、あるいは同じことだが、いまだ書かれていない文章への扉を開いてくれる。

  (『ムシェ 小さな英雄の物語』(p.133-4より))

 

 なんとも受賞作にふさわしい一節ではありませんか。

 そして、あとがきを見ると、白水社の担当編集者は藤波健さんでした。昨年の『エウロペアナ』の編集者は金子ちひろさん。お二人には、わたしもお世話になったことがあるので、2年連続での白水社の本の受賞はうれしい限り。

 物語はまだ少し残っていますから、訳文を味わいながら、日曜日までに読まなくては。

 

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 思い立って、カバーをはずしてみると、こんなきれいな表紙が! 文字と見返し、スピンも、きれいなモスグリーン。調べると、バスクの国旗の色は、緑と赤と白です。その緑なのでしょうか? バスクのサッカー代表チームのユニフォームは緑です。ただ、FIFAには加盟していないので、ワールドカップ予選には出られないらしい。バスク人選手で構成しているアスレティック・ビルバオの選手が中心だそうです。ビルバオはリーガの現在4位。一度も2部に降格したことがないらしい。リーガでそれはすごいね!

 あ、本の装丁は緒方修一さんです。

(M.H.)